左手でお尻拭けますか?

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#03 和歌山育ち

私の名は、吉川 徹(よしかわ とおる)と言う。
 小学校に通っていた頃、父親に「なんで、 "とおる"って名付けたん?」と問うたことがある。
「おとうちゃんの同級生で "いしいとおる"っていう賢い奴がおってな、そこから付けた」と父は答えた。
 自分にとっては衝撃の事実であった。
 同級生から付けたんか。なんかこう、どこどこの偉いさんに付けてもらったとか、聖書とか経典から文字を取ったとか、壮大なロマンが無かったんかい、と少し落胆した。
 だが、なぜか自分では「徹」という名前が嫌いではない。
 初めて自分に子供が出来たときに、父の言っていた理由が少し分かった。
 名前を付けることは凄く難しいのだ。ましてや一人目となるとなおさら難しい。たくさん候補を絞り出したが、決められないのである。父親もたくさん考えたと言ってたので、最終的には同級生から拝借したという結論が後押しし、しっくりと来たのであろう。

 生まれは太地町だが、育ちは違う。
 お大師さんで有名な高野町の麓に、高野口町という町がある。「高野の入り口」ということで高野口である。
 今は平成の大合併で橋本市となった。人口が17000人ほどで、パイル織物で盛んな町であった。
 一時は全国の約80%の生産を誇ったというが、高度成長期を過ぎると衰退していった。
 同級生の稼業も織物屋が多く、パッタンパッタンと機械が織りなす音が町中に響き渡っていた。
 今もたまに実家に帰るが、懐かしの機械音は聞こえてこない。
この高野口町が幼少期から高校卒業まで育った町である。

 父親の職業は織物屋ではなく、歯科技工士だった。父親の叔父が歯科医であり、その関係で歯科技工士の学校に通い、職としたのである。
 といっても父親は高校卒業後、薬屋に勤めたのちに大阪市央郵便局の局員になって、と職をいくつか変えたようだ。
 自営業であり、私が幼い頃から引退するまで、私が起きる前から仕事に就き、私が寝たあとも仕事を続けていた。いつ寝ているか分からないほど、仕事に打ち込んでいた。
 職場は当時住んでいたアパートの隣のプレハブ小屋だった。仕事をしているとはいえ、常に近くにおり、食事はいつも一緒だった。

 母親の実家というと稼業は布団屋である。屋号を「善兵衛屋(ぜんべや)」という。大昔は呉服屋をしていたそうだが、いつの時代かに布団屋になったようだ。
 幼少期から母方の家が好きで長期休みになると兄弟揃って遊びにいったものである。叔父が稼業を継いでいたのでよく遊んでもらった。
 その叔父も若くしてこの世を去ってしまった。嗣子がいないため、悲しいが私の世代で風化してしまうだろう。

 両親ともサラリーマンの家庭ではなかったため、私は自然と「自分も職を持たないといけない」と幼心に思っていた。
 自分自身が独立したのも宿命だったのかもしれない。